K前参議院議員の政界への経緯と叙勲への道
1)1月31日の「参議院議員任期満了御礼の会」と称する「叙勲祝賀会」
当日の出席者は、真っ先に驚いたことが二つある。
一つは、タイトルが 「叙勲祝賀会」に変わっていたこと、もう一つは、着席であったことである。
そして、着席であるが故に、座席位置で色々気が付いたことは、最初から出席と返事したもの、直前に返事したもの、当日出席したもの、それぞれであるが、実際、当日の座席で差し込んだこと等、その事が理解出来た。
勿論、会費2,000円と云う内容であったため、殆どが立食と思っていたこと、又、”このセレモニーをすることと、出席することに良しとは思わない、影響力を固執した人物がいた”と云われる事が要因のようだ。
引退したとは云え、通例では、発起人を立てて、「○○○叙勲祝賀会」として、正式にご案内すべきものが、ご本人の考え方が少々と、周囲の環境から仕向けたように思える。
しかし、長年の国や県に対しての功績、真摯に取組まれた仕事に心からの敬意と、叙勲に対しての祝意を率直に申上げる機会、公人と呼ばれるものにとってはこの時であり、県民等しく尊敬の意と喜びをともにして欲しいと願うものです。
2)K氏と白山麓地域との関わりK氏は、金沢市生まれで旧制四高から東大工学部へ進まれ、国交省(旧建設省)へ入省と、正にこの道のエリートである。
白山麓とのご縁はご本人のお母様が白山市(旧吉野谷村)の中宮出身で、実家が地域の名家でもあることから、関わりが極めて深いということです。私にとっては、「玉」は違っても、国交省の先輩であり、同郷にご縁を頂くものとして、格別に大事にしなければならないものでした。
3)政界への執念当時、今から23年位前、K氏は旧建設省の技術系の最高地位の技監であり、間近の退官後の行先、動向に関心が寄せられていた。政界か、道路公団か、○○○かと、噂はそれぞれのものでした。政界とは、参議院議員で、”比例代表”の旧建設省出身のポストに空きが無く、石川県での”地方区”からということでした。
そこには、現職のY議員が意欲を持って、次への準備を進めていました。
勿論、私もY氏の支持者であり、既に要請を受けておりました。
俄かにK氏の動きが気になるようになったある早朝、ご本人(K氏)が河内の自宅(旧河内村長時代)へ私を尋ねてこられ、そこで、K氏の出馬への意欲が確認された。
4)Y元参議院議員への仁義今日まで、Y氏の支持者であり、大変お世話になり、ご交誼を賜わって参りましたが、断腸の思いで、自らの態度を決めなければならないという、その決断を迫られました。
「K氏は私の出身の省の先輩であり、白山麓にご縁の深い方で、地域の環境、取り巻きを鑑みますと、自分の取るべき道はこの方法しかありません。ご寛容を下さい。」
というような内容のお手紙等をY氏に差し出させて頂き、仁義と致しました。
5)片棒を担ぐ水面下で、駆け引き、綱引きなどがあり、K氏側(M氏など)とY氏側(O氏など)と緊迫した常態あるいは、膠着状態が続いた。
ここで、K氏の意思を明らかにするために、演出劇が計画された。
その片棒を担いだのが私であり、当時の白山麓の村長たちでした。”関わりの深い山の村長さん方より、強い出馬要請を受けた”
ということを裏付けにし、その事をきっかけとして、”出馬表明をする機会”を作りたいという筋書きであった。
私たちは、上京し県内の有力報道機関の某社の東京支社O次長と待ち合わせ、K氏の在室する技監室でセオリー通り、要請をした。
さて、その内容をO次長より”M社(当時民放一社)とH.C新聞社へ連絡したほうが良い”と云われ、携帯電話の無い時代でしたので、公衆電話で私が電話をした。
M社の報道の責任者のO氏に”出馬の意思等”をしっかり伝えたが、
「そんな訳が無い、建設省の先輩たちに抑え込まれ、話が付いている・・・」
とのことでした。
それは、Y氏は自民党の前尾派に所属し、その派にはK氏の出身省の先輩のI氏など数名いて、その方たちによると
「K氏を説得した」ということでした。
私は、「否、今、私たちが要請し、その意思が確認できたのですよ・・・」と更に、「私は、貴方に伝えましたよ・・・」と念を押し、受話器を置いた。
また、H.C社の編集責任者のM氏にも連絡をしました。返答は同じように、『信じられない』ということでした。
私は更に、事情を詳細に伝え、
「私は出馬することは確実と思います。」
と、「後は貴方次第です・・・。」と申し上げた。
その後(出馬することになった後、)にM氏より、
「いやー助かった。あの時連絡をして下さったことで、一桁書かせて貰った・・・。お陰で・・・。」
というその事でのお礼でした。
事実、そのときのことが切っ掛けで、出馬の意思が県民に伝えられ、本格的な自民党公認争いに入った。
6)公認争いからの決着現職のY氏と新人のK氏の公認争いは、選対委員の投票によって決めなければならないところまでに至った。当時、金沢市内には未だ、展示場やホテルが無く、多人数の集合する場所は、センチュリープラザの地下ホールであった。
この場所に於いて、選対委員(自民党県連、各支部)400数十名の投票をもって、Y氏か、K氏に決めるということです。
Y氏は必死に、選対委員に直接働き掛け、過半数以上獲得の見通しが付き、自信に満ちていた。
一方、K氏側では国会議員を中心に根回しを続け、一人一人順次潰しに掛かり、過半数以上の獲得を担って、働き掛けた。
正に戦いは、【現職】か【新人】か、又、《温情》か《仕事》かに分れ、緊迫した中での公認争い、その投票は、将来性を見込んでの結果と思われるようで、K氏に軍配が上がった。
しかし、Y氏は無所属となっても、尚も、出馬の意欲を見せ続け、暫くは両陣営間に緊張感が漂っていた。
7)Y氏の決断と「臥薪嘗胆」県内を二分することに、又、保守を分裂させることに懸念した、Y氏の後援会幹部や、県内経済界の大物のK氏(故人)等がY氏の説得にあたった。
”参議院議員三期18年務め、大臣をも経験された・・・もう、争いを避けては・・・”
という言葉に、Y氏は無念乍ら了解し、出馬を断念した。
しかし、Y氏は不可解な気持ち、残念無念な心境を隠し切れなかった。
一言、”この恨みを『墓場』まで持っていく・・・”という呟きは、今日に至ってみ言い伝えられている。
正に「臥薪嘗胆」であり、この事後にO氏と意気投合し、一体化したことで、O氏の得票数アップに繋がり、特に金沢での集票力は抜群となった。
そして更に、次への対決に向けての拍車を掛けることとなった。
8)MO戦争の真の切っ掛け確かに一つの選挙区で数回競っていた。MOを含め3人の議席があり、MOが常連で、残りの一議席が代わる代わるであったため、何時しかMO戦争が始まっていたと云う。
選挙区が分かれてからも、県全体に対するライバルとして対決色が強まっていった。片方が、自民党を離れてから尚の事であり、O氏にY氏がぴったりと合流してからは、正に県政の及び、県都の主導権を握ったようであった。
県都の市長を、続いて県知事を、OY主導で勝ち取ったことで、一層、その事が証明され、完全に主流の道を辿ることになった。
実はこれからが、真のMO戦争となり、KYの公認争いが間違いなくその切っ掛けとなり、今も尚、世代が代わっても終結の道が程遠いようだ。
9)2007の出馬断念K氏の引退を予想し、自民党県連では、後任の新人の出馬準備が、淡々と行われていた。しかし、K氏は決して納得せず、ある権力者主導と思われることに疑念を持ち、水面下で自分の思いを訴えていた。
K氏を支持する県内の首長や県市町議と経済人は、本人の出馬表明を心待ちをしていた。
公認の新人が決まってからもその動きは止まらなかった。K氏の引退を諦め切れない熱心な支持者(自民党県連幹部を含めた有志)はどうしても環境を整え、出馬のチャンスを狙っての行動に出ていた。
県政の第2会派と連携を取り、更にK氏の後援会の動きも活発化して来た。
そこで、私の出番が求められ、当然、私がK氏を支持していると承知されての頼みであり、
“自民党での実績のある経済界の有力者を後援会長に依頼する件”
で私とは親交が深いという事からであった。
その幹部と有力者とのセットをし、私も立ち合った。又、引き続いてK氏ご本人と有力者とのセットをし、その際にも私は立ち合った。
そこまでは、環境の整えるためのセオリーで、相当の期待感があった。その決断を待ちきれなかった第2会派グループの幹部が、プレスの質問に答え、全面的に表に出て“出馬を表明されたら応対する・・・早く決意をして欲しい・・・と”意思表示をされた。この事が、後の決定的な理由になり、大きく計画を狂わせた。
さて、有力者が私にアポを取って来られた。予想通り、有力者からのアポには結果が見えていた。有力者は“県議、市議は今まで通りだが、この国政選挙には表に出る事を避けて欲しい・・・。
天下の大党を相手にこれ以上は・・・会社グループ幹部の総意での申し出であった”との報告で後援会長はお引き受け出来ないという返事でした。
そこで私は、幹部に報告をし、直ちにその内容がK氏に伝えられた。幹部の予想は“断られたことで出馬はしないだろう・・・”という事でした。案の定その日の夕方、K氏は会見をし“出馬をする意志が無い・・・。”という事を正式に表明された。色々な憶測でものを云う噂が飛び・・・様々であった。
しかし、整理をして見ますと、その要因は「有力者に承諾が貰えなかった・・・。」ことに間違いないと思われ、有力者が断った理由は「第2会派の幹部が前面に出たため、その事をある国会議員などから限定され“勝手も、負けても党を分裂させることを目的とするものと、組むことは良くない・・・。”という説得が最も堪えたのではないかと・・・。」と思った。
10)捻れ国会2007年の参議院議員選挙は新人候補の一本化と見られる姿で、進められた。一方の非自民の勢力は、前衆議院議員を候補者として、国政への一角の奪回を担っての擁立でした。この時点での誰しもの予想は、新人とは云え石川県では、”どの風が吹いても他候補者には負けることは無い”と読んでいた。
私もその一人であったが、”選挙中旬での選挙に対する新人候補者の取巻き幹部の行動に、疑念を持った”ことで終盤、勝敗の行く先が解らなくなったと思えた。
結果は最終時の予想通りであり、全国的なもので、自民党の惨敗となった。その要因は以前に【ひろと日記】でもご紹介したとおりであるが、
と思われ、正に衆議院では、自民党、公明党の与党、参議院では民主党を中心とする、非自民が与党となり、捻れ国会の始まりとなった。国民は、重要案件が順調に国会を通り、国民生活に支障のないようにという意見と、一方捻れ国会のお陰で、今まで出されなかったデータが露見したり、次々と無駄や不正を見逃さないことなど、証明したことを評価している意見とに二分化しているようだ。
さて、次の総選挙が楽しみです。