2010/2/23 火曜日

恩人が逝く

故:山本善一(旧河内村)

 平成22年2月17日、白山市河内町(旧:河内村)の山本善一氏の悲報に接し、また、大切な恩人の方が逝って終ったことに・・・。心に穴が開く思いで、徒、愕然と致しました。
もう暫くで、82才(昭和3年2月25日生)の誕生日を迎えると云う、「庚えの寅年」で、北陸では25年ぶりの大雪となり、白銀一色に囲まれ、世情では”冬季オリンピック”の最中のことでした。

 私にとっては、平成22年の2月当初議会中、慌ただしく、其れは、緊張している顔面に、一撃を加えられた感じでした。

”現在、県議をしていることも、政治に携わるように至ったことも、山本さんのお陰である”と、或る意味で確信を致すものです。

 1975年(昭和50年)の統一地方選挙(河内村議会議員)に向けての一齣のことです。

一地域の一族で乱立する情勢を、黙って見過ごすことが出来なかった弟(千代人)が、「兄貴を出す」と云うカードを手に、調整をしようと図った。しかし、地域の長老(区長等)は、調整をすることなく、叔父(中川石雄県議)の所へ駆け込み、叔父から母(姉)への電話一本であった。当時、現場から帰って知らされた私には、「寝耳に水」の出来事でしたが、”調整する”と云う考え方には、同調し、理解をした。

 翌日、叔父の方から二度目の電話があったことを知り、調整しなければならない時に、的が違う言動に対して、次第に反発となり、怒りを覚えるようになった。一期前まで議員をしていた、父の姿を見て、真に其の世界を嫌っていた私には、反感から、全く予想も出来ない闘志が、いつの間にか湧いていた。私が28歳、弟、26歳の時でした。

 このタイミングの折に、山本善一さんと金光学君の訪問を受けた。ダム事業で水没することから、集落が離散して終う状況と、身内の調整が付かなかったことから、「自分では、勝てないけれど、お前なら勝てる・・・応援する」と云う内容のことからでした。

一揆に選挙ムードとなり、選択した道は、私の姉、弟3人と友人(若者)等による、真逆の末の確かな反乱だった。

 その後押しをしたのが、山本さんでした。

【山本善一氏の経歴】山本 善一(やまもと よしかず) 昭和3年2月25日生

・河内村 議会議員     昭和46年5月1日~昭和50年4月24日
      農業委員     昭和35年7月15日~昭和41年7月14日
      民生委員     昭和40年12月1日~昭和46年11月30日
      選挙管理委員  昭和42年6月27日~昭和46年4月17日
      監査委員     昭和62年6月18日~平成3年6月17日
      国民健康保険運営協議会委員
                 昭和46年4月1日~昭和50年3月31日
      ふじが丘区長   平成元年1月31日~平成8年1月31日

・河内村自治功労賞 平成7年に受賞

  昭和50年4月、そのまま突っ走り立候補をすることになり、、お陰で当選をした。
あの時、山本さんと金光君の後押しが無ければ、決心が付かずこの道へ入ることが無かったと思う。”切っ掛けを作ってくれた弟と、後押しをしてくれた山本さんと金光君に、今は感謝をし、この御恩を決して忘れてはならない”と深く決め込んでおります。 そして、35年間、村議3期(議長、石川郡会長、石川県会長、全国副会長)、村長3期(石川郡会長、石川郡社協会長等)、地盤を金沢選挙区に移し、以来、県議3期を歴任し、多くの栄誉を得られたことに、徒、只管、感謝をし、この際、御恩に報いるために、”一生懸命”頑張る決意を新たにしていたところです。 山本善一さん・・・。昨今、石碑を建て、「蜜蜂を愛して60年」、”能きパートナーだった”と、・・・。養蜂業一筋、数々の功績を残され、素晴らしい家族に恵まれ、82才の今日、或る意味では、完全燃焼したのかもしれません。

夫人(奥様)は、私の経営する会社で、しばらく働いて頂き、又、私の村長時代の平成7年に、自治功労賞を、私の許で、手渡すことが出来たこと・・・この御縁にも感謝したい。有難う・・・山本さん。本当に有難う。

安らかにお休み下さい・・・。合掌

2010/2/3 水曜日

酷寒の中国で得たもの

一、大学の教育、学術交流に関する協定から「はじまる」

(目次)

 1)中国経済————————-P1
 2)私と中国————————–P2
 3)協定への仲介———————P2
 4)信頼は「人なり」——————-P4
 5)新年の陽射し———————P4
 6)次への展望———————–P4
 7)行動は敏速に———————P6

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一.大学の教育、学術交流に関する協定から「始まる」

 1)中国経済

 2009年(平成21年)のGDP(国内総生産)は、前年比8.7%の増加となり、世界的な金融危機の中であっても、経済成長を達成した。

それに比べ、日本では、低成長が続いていることから、中国のGDPは、今年中に日本を上回り、米国に次ぐ、世界第二位の経済大国になる公算が大である。

 徒、強さの反面、成長を続けている中では、5年連続二桁成長から、今年、一桁台に留まったことで、失速の懸念も促される。

経済危機に打ち出した施策は、新規投資を行う景気刺激策と、融資の緩和等で、前年の二倍に達している。

 然し、去年の輸出が前年に比べ、16%も減り、主要70都市の建物販売価格が8%上昇等、更に金融引き締めに転じることで、バブル崩壊に繋がる可能性もある。

新興国を代表する成長市場である中国の、急激な経済成長の陰には”置いてきぼり”にされた環境対策(公害問題等)、競争心を煽ったことによる労働条件や、貧富(所得や生活環境等)の格差が大きく付き、弱さも見られる。

 尚、独特のルールを押し付け、「中国一辺倒」のビジネスは、”リスクが避けられない”ことから、今後、国際社会を無視して行くことは出来ないと思う。

 2)私と中国

 1975(昭和50年)、35年前に、私は日中友好石川県町村議会議長会の訪問団の一員として、初めて、中国に渡った。当時は毛沢東時代で、日中平和条約が締結して間も無い友好訪問団しか受け入れない頃でした。

 尚、国内移動は軍用機、ホテルではお茶のみ、一般に女性はノーメイク、オール人民服で、女性が紐のある下ズボンを着用し、唯一、メイクが許されたのは、ショー等の出演者であって、催しの内容は柔らかで、妖艶な踊りでは無く、強い姿勢の格闘技をしているような内容のもの許りでした。

 我々一行は、上海から入り、北京、瀋陽などの主要都市を回り、2週間に渡っての訪問旅費は、世界の自由主義国並みの、500,000円位でした。

道路の往来は、自転車で溢れ、屋根葺き中の作業員や、下水道工事中の工夫は、全て人力が主体の人で一杯。娯楽施設の周辺では、人の群れ、若者の無気力さの印象が特に、目立った。

 以来、中国へは、渡航が緩和され、友好訪問に限らず、観光旅行が許され、上海、無錫等へ3回、又、大連、盤錦等へも3回の渡航する機会を得、行く度に、著しく成長し、発展する中国を視て、徒、驚く許りでした。
特に、上海のダウンタウン、大連のコンビナートを覗て、ここが”社会主義国”なのかと、夢の世界を覗るようで、不審さえ抱いたものでした。

 3)協定への仲介

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 昨年の秋、私の友人「Y」(高校の同級生)の紹介で、「Y」の大学の同級生、「M」と会う機会があり、その際、依頼を受けた。内容は、「中国の大学が医療、福祉等を専攻する大学と交流協定をすることを求めていて、地元の大学をご紹介頂きたい・・・。」と云う相談でした。

 「M」は、従来、中国人を主とする外国人研修生を取り扱う、協同組合の理事長を務め、中国関係者との間では、実績を積まれ、親交を深めていた。

 早速、私は大学側と接渉し、学園理事長の了解の下、大学の法人本部長と、中国人教授と、「M」とのセットをし、調整した。大学では初めてであり、”何れ中国の大学と交流することを計画していた”ことが明かにされ、順調に話が進んだ。

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 新しい年を迎え、1月20日~23日、交流協定の予備調査のため、中国盤錦市へ法人本部長代理と仲介役として、「M」と私も渡航する事になった。

中国の大学は、現在、「盤錦職業技術学院」で、学生数4,500名、教職員430名の3年制の専門学校ですが、正式には、来年(平成23年、2011年)の9月にウォーターフロントの埋立地に、移転新築をする[仮称]「盤錦職業技術学院大学」の4年制大学で、学生数が、10,000名以上に為る予定です。

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 4)信頼は「人なり」

 中国に於いての商談や交流には、その窓口とは、「如何に、人に恵まれるか・・・。」に懸っていると云うもので、それが、”総てである”と云っても過言ではない。
今日までの日中両国間での交誼は、2割が恵まれ、8割が不幸にして、不信感を募らせる結果となっていると云う噂である。

 今回のご縁は、「M」が仲介をし、その取巻きも信頼出来、今後とも、大事にしたいと思っている。

 5)新年の陽射し

 新しい年を迎え、私は、身も心も新たにして、中国の地へ臨んだ。
渡航した国(目的地)は、マイナス21℃の世界で、昼間の天気に恵まれていても、マイナス10℃前後の酷寒の厳しいもので、身の引き締まる思いと、心身共に清める事が出来た。その上、両国間(大学間)の「相互の意」が合致し、交流協定を交わすことを前提に、今後、日程調整をするまでに至った。

 一月中には、相互間で、交流協定する事の機関決定と、協定書の内容の確認、二月十日頃までに、両校の代表者印鑑の捺印したものを、送付によって交わし、4月中旬に学院長が石川県を訪問して、仮調印をする運びとなった。正月早々、酷寒に身を清め、一定の方向性を出す結果を得、ホーッとし、新年のスタートに相応しい光が見えたようで、正に、嬉しい限りの「新年の陽射し」でした。

 6)次への展望

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 大学の新天地は、ウォーターフロント(埋立地、WF)の経済区で、36万坪のキャンバスになる面積が、全体の僅か一部に過ぎない程、広大なもので、「40万都市計画」、”住宅地、ダウンタウン、港、倉庫群、ゴルフ場18ホール”等、金沢市のような規模の新都市を造るものです。

 更に、隣りの営口(インコウ)市には、WFまで、20分程のところに、国際空港を2年位で整備をし、今年中には、大連市~盤錦市間に高速列車(MAX380km/h)が、開通する予定で、その折には、この間、約300kmを40分間に短縮される。

 現在は、高速道路を利用して、3時間40分位、掛かるもので、高架の高速列車の幹線が並行して、ほぼ完成している光景を目にすることが出来た。

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 この大学を通じての交流には、夢が湧き、更に広がるビジネスチャンスが、満目、満悦している。WF・経済区の「まちづくり」は、10年計画で、経済投資、商工農業の技術交流や進出、観光交流、教育、文化、学術の交流等、無限大の要素がある。

 この経済区の元祖は、日本人であり、最初に手掛け、途中、中断していたもので、更に、この地域の稲作(米)は、日本人によって作られ、指導を受けたものであると云う説明を受けた。

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 7)行動は敏速に

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 三年前、友人が上海に、結婚式場を開設し、私も見学に出向いた。その事を想い出し、大連市から彼に電話した。「大連市で結婚式場をしないか・・・」と云う問いに、彼は、”実は、上海の支配人の夫人が大連市出身者なので、是非したい・・・。”と云う即答が頼もしく、返ってきた。

  国際結婚の仲介や、高速列車が開通した暁には、経済訪問団を連れて、WF・経済区を紹介して、進出企業を募りたいと・・・。近い将来、営口国際空港が開設された折には、実績を挙げた上で、小松~営口間の新航路を開設したいと思った。

 帰途の翌日、県の空港担当と、観光交流担当の部局との調整を図り、説明をし、検討をするように要請した。
又、早速、上京をし。国交省の総括審議官に、概ねの説明をし、理解と協力の陳情をした。

 正に、5年後に、新幹線が金沢まで来ることに照準を合わせ、「行動は敏速に」をモットーとする。

2010/2/1 月曜日

2010年2月の言葉

 世の中に 親に考ある 人はただ
  何につけても 頼もしきかな 
     
           -荒木田守武・世中百首-
世の中で、親子の関係ほど密着したものはない。
親が我が子を可愛がるのは自然の情である。
その子が親を大切にするのもまた自然の情でなければならない。

その意味で、自分を産んでくれた両親に孝行を尽くす人ほど、頼もしい人はない。
両親に対しても誠心をもって接する事が大事である。
  

 ・荒木田守武・世中百首
        戦国時代の伊勢神宮の祠官。世の中百首は一五二五年に
        詠んだ童蒙教訓の歌集である。


                           平成二十ニ年ニ月一日

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