2010/9/27 月曜日

20.総括

 財産相続は、父の意思に然って、仲良く、法に基づいて粛々としたいと考えている。

 父の眠る墓、遺影の元に、いつでも身内が集まれるようにしたい・・・。
仏像と菩提寺の整備、伯父のお墓の整備、納骨、兄弟の法名に経費が掛かるが、父の思いの範囲でしたい・・・。又、願わくば、河内本家を守るために、一部(2F)改装も考えている。
 やはり、河内本宅が私たち一族の中枢であり、拠点地であることを確認できたことから、前向きに判断したいと思う。

 この会葬(弔意)にあたり、「人の心」を知り、日頃の交誼の大切さを認識し「人間関係こそ生きた財産である」こと尚、又、「人との付き合いの距離間の度合」などが確認できたと思う。

 私は、“弔意と信仰”をこれからも大切にしていきます。

  

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19.遺産の整理

1)年金
 父よりも母の年金の方が多額であることから父の年金は消滅する。但し、議員年金は母に引き継がれるので、総ての手続きを速やかに始めた。

2)出資
 JAの出資等は、1ヶ月以内に整理することが適当であると云うことなので分配はともあれ、一時的な事務処理をすることにした。兄弟の実印と印鑑証明書が必要であるため、17日に持参するように連絡をした。会社関係の出資等を始め、有価証券の整理も引き続いてしなければならない。

3)金融機関
 金融機関の口座は、父の死去と同時に閉じられ、普通預金を始め、定期貯金も相続手続きを要する。関係者の協力の下に、速やかに進めたい。

4)物件等
 宅地、建物、水田、農地、山林地等の僅かでありますが、相続をしなければなりません。法に基づいて、母が2分の1、5人の子どもが5分の1ずつを基本に明確に事務処理をしたいと思う。

 

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18.会葬お礼とお礼状

 会葬のお礼を手分けして回った。
早速名刺を「葬儀委員長と喪主」と「田中家代表」の2種類を作って各所、各社、各宅へお礼に伺った。  
 ご香典以外のお手伝いや電話、枕花などの供物を頂いた方々に、お礼状を出す必要がある。又、集合写真、カラーコピーなどを整理して、関係者に礼状を添えて送付することを考えている。

 

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17.喪主の挨拶

通夜の挨拶は、途中絶句し涙を流した。
 医師から告知を受けた後の40日間、危篤の知らせを受けた5回を含めて、身内の関係者が枕元に集まったことが、6回になったいきさつについて披露した。1ヶ月余り24時間体制で付き添った内容、特に“家内と姉”を軸に泊まり当番を兄弟の嫁が加わり、昼間の2班体制には、このメンバーに孫娘と孫の嫁たちもローテーションに入り、身内や近親者の方々も殆ど毎日枕元へ来られ、顔を見せ、声を掛けて貰った。
 日頃、夫々の立場で地域や職場や家族を構成しての慌しい毎日で、今日まで中々コンセンサスを図る機会が無かったものでした。父は、ドクターもナースも信じられない程、心臓が強く、何回も危機(危篤状態)を乗り越えたのは、“人が集まる”ことが好きだったこともあると思うが、何よりも「身内が仲良くして欲しい・・・。」「兄弟は力を合わせて頑張って欲しい・・・。」と強く願っていたもので、自分が頑張ることで「この姿を確認することが出来た」と云うことだと思った。
 そして、静かに息を引きとったのでした。

 参詣者は、県外の主要企業の社長や奥能登(珠洲市、輪島市、能登町、穴水町)から首長、県市町議、商工関係の経済界、建設業関係者、加賀地区、白山麓からも多勢、金沢市、白山市の商工業、JA、森林、建設、スポーツ、文化等多くの関係者に参詣をして頂いた。
 国会議員の秘書、副知事、県議、白山市長、副市長2名、羽咋市長、穴水町長等又、商工会連合会長、県建設業会会長、県中小企業中央会会長を初め、各校下会長、連合会会長の参詣を頂いた。

葬儀及告別式の挨拶は予想以上の準備不足と長時間になったお詫びが中心の内容となった。
 この機会に父の遺徳を偲び、意志を引き継ぎ、特に身内に伝えたかった2点を強調した。

1)「自立心を養う」ことは、何も云わない父、いつも温かく身守ってくれていた父、私達は安心をして自分で方針を定め自らの足で新しい分野に挑戦をして参りましたことから生れたものでした。

2)「”見返り”を求めないお世話」社会のため、人のため尽くす、お世話をすることを生きがいに、それは”見返り”を求めていたものでなかった。半世紀以上前に、ホームレス親子を泊めた話を含め、家庭を顧みないで、他人のお世話を優先してきた父を今は尊敬しております。しかし、子ども時代か孫の時代にいつしか返って来ていた。正に、私たちの時代に引き継がれ、「人の心」は生きていた。
 誠実に、私の囲りでは、ぬくもりが感じられる位生きていた“父の生きざま”に敬意と感謝をし、私を初め、身内の「宝」として今後も、大事にして参りたい。このような内容を中心にした挨拶をした。

 

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16.弔詞、弔辞

 父は「大谷派鶴来別院」と金沢市内の「道林寺支坊」を熱心に信仰され、何れも「責任役員」をして参りました。そこで、両寺院からの“生花”及び“道林寺支坊”の代表者である責任役員の弔詞があった。

弔辞は、葬儀委員長の白山建設㈱社長と、白山グループ総社役社員代表によるものであったが、功労者である父の弔辞を申し出により、白山市長も加えることになった。

葬儀委員長は、会社の創業者としての経過、奥様と二人三脚でのご苦労等された事及び今日のグループ化するまでの経緯、並びに「白山建設」と名称にしたことに対しての先見の眼、更に大きな流れと基礎を作り上げた功績を挙げての内容でした。

白山市長の弔辞の代読は、河内支所長が行い、数々の公職等の功績が讃えられた。特に、河内村の副議長、区長会長等、又、人権擁護委員など、加えて体育協会会長を19年間、地域での活躍を含めたものでした。

最後に役社員代表の弔辞は、営業の「いろは」を教えて貰ったこと、人間関係の広さに吃驚(びっくり)しながら、大きな後押しをして貰ったこと等、更に、他人の相談に積極的に乗り、お世話をすることをモットーとされていたこと等が訴えられた。
特に、毎年、年末の“クリスマス”には、自らがサンタクロースの格好をして、親戚だけではなく自分たち社員の子どもまで、多勢のところの家へ1件1件尋ねられ、プレゼントをして回られた。「元気で勤めていた」その間10年以上に渡って続けられていたと云う披露に対しては、特に、印象に残った。

 

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15.父への思い

1)掛け軸
 父の存命中「南無阿弥陀」の掛け軸を買って持っていたと云う記憶であったが、いざと云う時に不明であった。何方かに貸したと云う覚えが薄く、止む無く、父のためにこの際、購入することを決め、仏壇屋さんを尋ねた。
「親鸞聖人」の書である写しを心を込めて「笠間仏壇」に注文をした。

2)仏像
 本宅の仏壇は、それなりに由緒ある善い物であった。しかし、厳かなものであったが、仏様を描いてあり、予てから展示会等で、機会があれば・・・と意識しながら仏像を求めていた。
父の思いを受けられるような「仏像」をみつけ、納めることにした。

3)墓地(菩提寺)の整備
 父の兄にあたる県外の方の骨壷が、私ども菩提寺に納められている。勿論、「法名碑」に伯父の名が書いてありません。家を出られて、県外で世帯を持っておられた方であるため、田中家の墓に同納することはタブーであると聞いておりました。
 今は、行方不明である伯父の子ども(男女各1名)に、優しい父は無理強いをされたと聞いており、だからと云って、無縁仏にすることを望みません。父の“納骨の際”きちんと整理することを父は望んでいると思われ、早速準備に入った。
 地元区長にお願いをし、現地で立ち会い、場所等を決めた。
菩提寺の隣に伯父の墓を別に新設することにした。無論、管理等、お参りを私たちの手で行うことを前提としたものでした。
 又、私たちのお墓も35年経つと、傷みと、全体的に無理があったこと、更に「法名碑」に父の法名を加えるには、手直しが必要であったことから、この際、改築することにした。

4)納骨
 納骨については、四十九日後、“仏像納め”「招魂式」と菩提寺と伯父の墓の完成後、「お寺さん」と相談し、分骨箇所等を含め、本山には納骨をしたいと思っています。
 その同行者に、私たち夫婦は、兄弟の夫妻や家族を誘ってバスを求め、団体で参りたいと考えています。

5)法名
 本山の納骨の際、私たち夫婦は、勿論、兄弟夫婦にも呼びかけ、法名を頂きたいと考えています。父は62才、母は61才の時に最初の、又、父が65才、母が64才の折に正式に「法名」を頂かれたことから、その意志を受けたいと思います。勿論、“お寺さん”と相談してからのことです。

 

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14.「四十九日」法要10月23日(土)

 初七日以降は、一週間ごと教願寺の住職の元で、法要を行うことになった。
次は、17日(金)引き続いて24日(金)、10月1日(金)、8日(金)、15日(金)の19時30分より、そして、22日(金)が四十九日であるため、先の週の土日が適当と思われましたが、住職の都合で、翌日の10月23日(土)11時に河内宅で執り行うことになりました。

 勿論、その間、河内本宅の祭壇(法名「慈光院釋義山」)に家内か私は毎日欠かさず参詣をしています。又、身内も時々参ってくれています。

 

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13.「初七日」までの仏道9月10日(金)

 初七日の日までの9月8日(水)、9月9日(木)の2日間は、河内本宅へ住職(教願寺)が来られないと云うことでしたので、私の元で法要をすることにしました。

 住職に相談したところ、嘆佛偈か阿弥陀経をあげれば良いと支持を受けましたので、8日17時より、身内の20名位の参詣で各自焼香を入れながら執り行いました。18時前に終了したため、この後は”夕食でも”と云うことになり精進料理を、急に、無理が云える鶴来の「さわだ」へお願いをし、移動した。

 2日目の9日には、18時から法要を行い、昨日に引き続き「さわだ」にオードブル等の夕食会の料理をお願いした。昨日より少し多くの方の参詣の中で各自焼香を入れながら行われた。

 さて、初七日9月10日18時の法要には、教願寺の住職の元で身内、親族、近所の方々の参詣の中、行われた。お経は「嘆佛偈」と「阿弥陀経」で速やかに終了した。参詣者は60名位で、終了後に夕食(中陰)会をした。オードブル等の料理を会葬を頂いた金沢市内の地元の「名船」にお願いをし、今後予定を申し上げ、儀式を納めた。

 

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12.「法要」「中陰」

 白山葬斎場を後にして、式が執り行われた中成の中陰会場へ向った。

16時30分より「法要」が教源寺の住職によって始められ、順次、焼香をした。

17時から「中陰」が120名の大所帯で始められ、冒頭、私がご挨拶を申し上げ、身内、親族の他に、お世話を頂いた関係者、会社関係の代表、今日までの中陰に招いて頂いた方々などでした。
 父が、“賑賑しい、人の集まりが大好きであったことから、和やかに執り行われ、意義深い1時間30分”の食事会でした。

 全員の見送りを終え、河内宅へ骨壷の大小と位牌、写真等を持参し、セレモニー関係者の指導の下、仏間に於いてセットされた。

 今、ご遺体のない骨になった“淋しさ、儚さ”が込み上げて来た。

 

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11.「お帰りのみち」

 13時55分、父のご遺体を乗せた霊柩車と随行車、大型バス2台を弔問客の見送りを受け、出発した。
 私は、霊柩車に乗車し、位牌を手に持って案内をし、次の車に家内と長男と姉が乗り、遺影、カメラ等を持参した。

 父の最後のお別れのため、主要生活箇所と、お世話になったところを一巡することにし、コースを作った。
1.三浦町の白山建設㈱、本社、並びに、はくさん緑化工業㈱の前
2.3年間お世話になった明島町の「あじさいの郷」で沢山の方のお出迎えを受け、母とも対面し、
3.月橋町の2ヶ月余入院していた「新村病院」。何れも、スタッフ関係者に見送られ、
4.旧河内村の役場(白山市河内支所)と河内小中学校を通過し、
5.福岡発電所(赤レンガ)
6.㈱友真社の前
7.河内宅(本宅)
8.福岡区の佐野神社、集会所を横目に
9.福岡区墓地(田中家菩提寺)を通過し、
10.白山葬斎場へ予定より12分遅れの13時57分に到着した。

 総て、私が口頭で父に語りかけて案内した。
火葬場での儀式が執り行われ、1時間35分で骨となってしまった。

 

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10.「葬儀・告別式」平成22年9月7日(火)11時より

 前日の通夜と比べると、約半数位の参詣者であり、混乱も少なかった。約1,200名の弔問客により、式が行われた。

 当日に、弔電等が県内外からギリギリまで届き、整理がつかなかったこと。又、僧侶が多方面から寄せ集めた事等で、コンセンサスを図るために少し時間が掛かったことで、開式前にしなければならない弔電披露が開式時間を過ぎた。

【反省点】
 1)弔電整理のチェックと司会者との打合せ、時間調整、手直しをする時間がなかった。余裕をもって、開式前に終らせるべきだった。

 2)故人の経歴については、通夜にあって良かったが、葬儀・告別式では白山市の弔辞が追加されたことで、省略するべきだった。

 3)葬儀委員長の弔辞も、時間関係と白山市の弔辞を鑑みて、少しでも省略すべきであった。

 4)通夜も含めて、顔見知りの誘導者の配置、又は、席を把握している会場係を増やす必要性があった。

 5)特に混み合う時間には、入口受付の状況を網羅出来るようビデオ等を含め、撮るべきであった。著名人を網羅しているカメラマンの配置が不足した。

 6)2Fの会場が満席になった折、1Fの弔問客に「後で遺族へのご挨拶と参詣が出来ます」との案内をもう少し、すべきであった。(1Fのみのアナウンス)

 

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9.「通夜」平成22年9月6日(月)19時より

 どの位の方が、ご参詣下さるか全く予想が付かない状況でした。
式場・会場には2時間前から来られ、遺族席で対応した。

 2F本式ホールの500席、隣のロビー補助席300席、多目的ホール100席、1Fのホール350席、エントランスホールの補助席200席、立席500名、参詣、受付のみで戻られた方350名位で、後で交通渋滞を起こし、野々市町の大和ハウジングまで列になったと報告を受けた。

 本当に多勢の皆様や地域関係者にご迷惑をお掛けし、申し訳なく思いました。兎に角、用意した2,000個の香典返しが途中、不足すると云った具合で大慌ての始末でした。
 特に、夫婦、親子、兄弟など参詣者が多く、又、各企業、団体、地域では2名から6名位の複数の参詣があり、更に、県外からホールディングスのオーナーや飲料水会社の社長等、県内の能登や加賀や白山麓等広範囲から多数の参詣もあった。
 尚、県副知事、県議、能登の市町長、地元、白山市の市長、副市長2名を初め、経済界の代表、農林業界の代表、建設業協会会長、町連会長、業界会社など、幅広い層の参詣を受けた。
 特に、旧河内村(河内町)からの7割以上の世帯の参詣があった。
約2,300名の弔問を受けた。

 

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8.自宅に帰る

1)平成22年9月4日(土)9時40分河内宅に到着、10時30分より法要
 河内宅へ久しぶりに無言の帰宅となった。
9時20分に病院関係者全員のお見送りの中、私の車がご遺体の車両を先導し、河内宅へ向った。予定の時間に到着し、セレモニー関係者等がフトン等の準備をし、子どもにあたる兄弟を中心に、ご遺体を仏間に納めた。
 10時30分頃に、教願寺の住職による法要があり、各自、焼香をした。身内、親族をはじめ、福岡地区の方々、又、副知事夫妻の弔問を受け、更に能登から会議所の会頭親子等を含め、本日の弔問客は100名位になった。

2)平成22年9月5日(日)「仮通夜」
 この日も、弔問客が止まることがなく、旧河内村内や以前より交誼を頂いた方々が仮通夜に参詣された。又、金融機関の頭取が弔問され30分以上も居られる等、懐かしい方の次から次へと弔問を受けた。
 又、特に旧来の友人たちが受付等のお世話を買って出られる等、有難いことでした。
19時よりの通夜には、教願寺住職の法要を受け、身内、親族、弔問客参詣によって、厳粛に執り行われた。本日の弔問等は、115名でした。

3)平成22年9月5日(日)15時より16時20分まで「納棺式」
 5日19時よりの通夜の前に、15時より納棺式をした。
女性の納棺師によって、身内等の前で、見事な手捌きと優しさをもって、着替え、化粧等が行われた。参詣者の手によって、手足が清められ、主要な関係者で棺内にご遺体を納めた。多勢であったため、1時間20分位掛かった。

4)平成22年9月6日(月)15時30分に河内宅出発(出棺)
 当番関係者以外の集合時間を14時30分位にした。15時過ぎにセレモニー関係者が着き、早速、近い身内の男性によって棺を正面玄関から運び、霊柩車に納めた。
16時15分に、中成の本式場の松任会場へ到着も、控え室にて、安置された。

5)平成22年9月4日、5日、6日の3晩「付き添い当直」
 火番を含めた当番の割り当てが決まった。
4日は田中博人家、5日は中川三千雄、茂子及び田中千代人家、6日は多田亜起人家及び田中充人家で行うようになり、夫々、家族等が加わり、真心を込めてその役割を果たした。

 

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7.法名

 父母が、「法名」を頂いていることすら知らなかった。
道林寺関係者に相談をしたところ、本山へ2回行かれて、既に持っておられると云う返事でした。調べてみると、仏壇の引き出しに父母の法名が納めてあった。

 昭和57年(1982年)6月12日、昭和60年(1985年)7月14日。
  父、田中博「慈光院釋義山」
  母、田中はつ「清念院釋尼芳華」

  父の(法名)は、「慈光院釋義山」でした。

 

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6.僧侶

 さて、道師をどなたに・・・。父は、“大谷派鶴来別院”と“道林寺支坊”の責任役員をしていた関係で、両寺院を中心に考えなければならなかった。
又、一般の僧侶を以前より、お参り等で当家に出入りされた方を、と限定した。吉野の願慶寺、若原の教願寺、白山の浄養寺の内、遠戚筋で父と個人的に交誼のあった教願寺住職を窓口とした。
 尚、当家の隣の道林寺のお世話をされている方に相談をすることにした。勿論、道林寺住職を道師にするよう推薦された。そして、私が、金沢市に在住して15年間お世話になっている関係、又、その中には親戚及び後援会長の方もおられることから金沢市の地元の4寺院を限定した。

 葬儀の僧侶群が決定した。

道師には道林寺、伴僧も道林寺、河内地域の僧侶として、鶴来別院、願慶寺、教願寺、浄養寺、金沢地域の僧侶として、南四十万の常本寺、中四十万の善性寺、北四十万の本正寺、額新町の超願寺の計10院とした。

 通夜には、願慶寺、教願寺、浄養寺の3名で、河内宅での9月4日の枕法要と5日の仮通夜は教願寺1名に、更に引き続き、葬儀終了後の火葬場及び中陰並びに初七日(9月10日)と七日ごと(17日、24日、10月1日、8日、15日)、又、四十九日の10月23日(土)の法要を教願寺にお願いをした。
 尚、法要代金等も関係者との相談の上、決めた。

 

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5.式場

 父は、白山グループ総社の中枢とされる白山建設㈱の創業者であることから、当家と合同葬にすることに為った。天祥閣の建築物は、白山建設㈱が殆ど請け負っていることから、式場の指定は天祥閣に限定された。
 私は、白山麓、金沢方面の参列者を予想して、利便性から井ノ口会場を提案したが、駐車台数は、隣のJAを加えても約250台で、駄目であると云うことでした。
 次に、矢作会場を調査するように指示したものの、その結果、周囲を加えても約450台であることから、無理であると云うことでした。準備事務局側(白山建設、アイコック、当家の窓口とセレモニー側が加わり)の報告でした。 

 勧められたのは、中成町の松任会場でした。500台+250台+周辺等、1,000台以上考えられると云うことで、会社だけではなく、私の今日までの交誼、交友範囲を鑑みて、想定しなければならないと云うことでした。私は、JR線を超えて行かなければならない迷路のような会場を好きくなく、参詣者の立場で気が進みませんでした。しかし、結局、諸般の事情で、松任会場と決めざるを得なかった。

 

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4.初体験

 昭和33年1月に祖父、12月に祖母を亡くしてから「53年間」お葬式を出したことが無く、全くの「初体験」でした。

 父からの教え、「人間関係を大切にする。人のお世話をする。社会のために働く」ことをモットーにして、私たちは生き抜いて来ました。その一つは、弔儀に対して、懇(ねんご)ろにすることでした。私は、誰にも負けない位、地域や文化や宗教等の違いを超えて、関係者の儀式には、参詣して来ました。

 しかし、自分が喪主の立場になることは初めてで、新鮮な中にも不安で一杯でした。

 

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3.父の心

 平成22年7月26日に告知を受けてから、丁度40日間、危篤五回を含め、入院中の枕元へ身内が集まったのが6回。そして、最初の危篤状態の8月2日から1ヶ月間にわたって24時間体制で身内が付き添った。
 夜の泊まりは、長男である私の家内と長女である娘を軸として、二男、三男、四男の嫁たちが加わってのローテーションで、昼間の2班体制には、先の女性たちに加えて、孫娘や孫の嫁たちも加わっての組み合わせでの付き添いでした。

 この家族、親戚のまとまり、チームワーク、正に仲良い状態を最も望んだのは、父だった。
この姿を確認するまで、何度も危篤状態から回復し、頑張られたのでは・・・!駆けつけた身内のエネルギー、パワーを吸収して元気になったことも、人の集まることの大好きな父にとっては求める結果であったことに間違いなかったと理解されるが、何よりも「力を合わせて、仲良くしている姿・・・!」を父は望んだのだろう・・・。

 ようやく父の40日間の頑張り、「父の心」を知ったようです。

 

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2.危篤

 去る、7月26日に告知を受けてから1週間後の8月2日に、病院より知らせを受け「危篤」と云うことで、私は小松の出張先から駆けつけました。
 必死でのドクターやナースの手当てと看護により、再び、血圧や脈が元に戻りつつ回復をした。第一回目の危篤の知らせでした。

 平成22年8月3日、私は姉と2人で付き添っている折、“もしもの時のお寺さんは・・・”“最近のお付き合い、昔からの中陰等に招かれた親戚付き合いは・・・何かリストが・・・”と会話をしていると「顔色が急に変わり・・・!」脈に変化があり危篤状態になったことから、ナースコールし、直ぐドクターも加わり、懸命に呼吸がし易いように措置をされた。第二回目の危篤状態でした。
 そして、何とか回復したが、“私たちの会話が聞こえたのでは・・・”とちょっと気になりました。以来、安定的に小康状態が続いた。
 旧盆の8月15日に母を特養施設から施設の専用車(理事長の了解の下、事務長の運転による)に乗せて、墓参りを(田中家の墓地をはじめとする福岡区の4件、上河合の南家、下河合の中川家)して、河内の本家へ戻った。身内が集まり、母を囲んで和やかに食事会をして、3時間余りの里帰りを終え、施設へと送った。
 3日の危篤の知らせから27日間にわたって安定していた。

 平成22年8月30日に、第三回目の危篤の知らせを受けた。自宅(額)から駆けつけた。久しぶりの事ではあったが、“祖父ちゃんは、身内が集まるとパワーを貰い、元気になる・・・!”といったジンクスが出来たようであり、本当に又、回復した。

 平成22年9月1日に、第四回目の危篤の知らせがあり、職場から駆けつけた。又、必死の手当てで回復をしたので、ドクターもナースも口を揃えて“こんな方は、見たことが無い・・・!何と心臓の強い方であるのか・・・!兎に角、不思議である・・・”と云われたものです。
 9月2日・3日、県外に在住する2人の孫娘が帰って、付き添っている折、“まだまだ半年先まで大丈夫・・・!”と思われるほど元気であり、会話が分かるようであった。

 平成22年9月4日、・・・第五回目の危篤の知らせがあり、ただ、びっくりするだけで、“何で、昨日、あんな元気だったのに・・・!”
 確かに危篤の知らせが五回目になると、各自の動きが鈍り、“まあ・・・そうは云っても大丈夫だろう・・・。”と勝手に考えていたのは、私だけではなかったようだ。先んじて駆けつけた家内から連絡があり、“息が弱まっている、いままでと違う。早く来て・・・!”私は、自分で運転をして駆けつけた。

 いつもの様相と違う。・・・。
病院スタッフの手当てを受け、必死に頑張って息をして“子ども達が着くのを待っていた”かのように、午前8時24分、家族、親族の見守る中、しずかに90年の人生の幕を閉じられた。

  

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1.告知

1)無常な告知
平成22年7月26日、病院からの連絡を受け、家内と入院中の父のもとへ参ると、院長は、辛そうな様相で“近親者に告知を・・・。”“何時、危篤状態に陥るか分からない・・・。”と云われた。
正に、覚悟をしていたとは云え、無常なものでした。その通りの内容で、私の兄弟や近親者に連絡したところ、26日、27日中に関係者が40~50名、心配をして見舞等に駆けつけてくれた。

2)入所
“100歳まで生きる・・・!”と人様に対し、豪語をしていた父も、晩年は、年相応に入退院を繰り返すように為りました。
平成19年6月に「特別養護老人ホーム(あじさいの郷)」の母(平成17年10月入所)の下へと入所した。
平成22年5月、父は「満90歳(大正9年5月13日生)」の誕生日を迎える途端に病弱に為り、特養施設から病院へ移り、入院することに為りました。

3)入院
1週間余りの治療のお陰で、施設へ戻ることになりましたが、平成22年7月2日に痰がからみ食物が喉を通せない状態(食べれない)で、急遽、点滴の処置が必要となり、病院へ再入院することに致しました。

 

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