恩人が逝く
故:山本善一(旧河内村)
平成22年2月17日、白山市河内町(旧:河内村)の山本善一氏の悲報に接し、また、大切な恩人の方が逝って終ったことに・・・。心に穴が開く思いで、徒、愕然と致しました。
もう暫くで、82才(昭和3年2月25日生)の誕生日を迎えると云う、「庚えの寅年」で、北陸では25年ぶりの大雪となり、白銀一色に囲まれ、世情では”冬季オリンピック”の最中のことでした。
私にとっては、平成22年の2月当初議会中、慌ただしく、其れは、緊張している顔面に、一撃を加えられた感じでした。
”現在、県議をしていることも、政治に携わるように至ったことも、山本さんのお陰である”と、或る意味で確信を致すものです。
1975年(昭和50年)の統一地方選挙(河内村議会議員)に向けての一齣のことです。
一地域の一族で乱立する情勢を、黙って見過ごすことが出来なかった弟(千代人)が、「兄貴を出す」と云うカードを手に、調整をしようと図った。しかし、地域の長老(区長等)は、調整をすることなく、叔父(中川石雄県議)の所へ駆け込み、叔父から母(姉)への電話一本であった。当時、現場から帰って知らされた私には、「寝耳に水」の出来事でしたが、”調整する”と云う考え方には、同調し、理解をした。
翌日、叔父の方から二度目の電話があったことを知り、調整しなければならない時に、的が違う言動に対して、次第に反発となり、怒りを覚えるようになった。一期前まで議員をしていた、父の姿を見て、真に其の世界を嫌っていた私には、反感から、全く予想も出来ない闘志が、いつの間にか湧いていた。私が28歳、弟、26歳の時でした。
このタイミングの折に、山本善一さんと金光学君の訪問を受けた。ダム事業で水没することから、集落が離散して終う状況と、身内の調整が付かなかったことから、「自分では、勝てないけれど、お前なら勝てる・・・応援する」と云う内容のことからでした。
一揆に選挙ムードとなり、選択した道は、私の姉、弟3人と友人(若者)等による、真逆の末の確かな反乱だった。
その後押しをしたのが、山本さんでした。
昭和50年4月、そのまま突っ走り立候補をすることになり、、お陰で当選をした。あの時、山本さんと金光君の後押しが無ければ、決心が付かずこの道へ入ることが無かったと思う。”切っ掛けを作ってくれた弟と、後押しをしてくれた山本さんと金光君に、今は感謝をし、この御恩を決して忘れてはならない”と深く決め込んでおります。 そして、35年間、村議3期(議長、石川郡会長、石川県会長、全国副会長)、村長3期(石川郡会長、石川郡社協会長等)、地盤を金沢選挙区に移し、以来、県議3期を歴任し、多くの栄誉を得られたことに、徒、只管、感謝をし、この際、御恩に報いるために、”一生懸命”頑張る決意を新たにしていたところです。 山本善一さん・・・。昨今、石碑を建て、「蜜蜂を愛して60年」、”能きパートナーだった”と、・・・。養蜂業一筋、数々の功績を残され、素晴らしい家族に恵まれ、82才の今日、或る意味では、完全燃焼したのかもしれません。
夫人(奥様)は、私の経営する会社で、しばらく働いて頂き、又、私の村長時代の平成7年に、自治功労賞を、私の許で、手渡すことが出来たこと・・・この御縁にも感謝したい。有難う・・・山本さん。本当に有難う。
安らかにお休み下さい・・・。合掌